Saturday, April 21, 2007

しばらくむなしくわめくのだ

にゃろめ、
この二十数年間の損失はとても大きい。
しかしそんなことはなんとも思わないのだろうな。
以前、年金の掛け金が払えるような経済状態ではないので、
猶予の手続きをとるように言ったら、
あぜん。自分の分だけしていた。
まいいさ。

何より決定的なのは、
家業に対しての努力が皆無であったこと。
いったい誰のところに嫁いだのだろうか?
お役人のところがよかったのだろう。

周りから見ればわるいのはと~ぜんワタクシということになるだろうし、
実際そうだろうが、
一緒になって10年間は、文句の言われる筋合いはない。
形骸化しているクラシックの音楽を本来あるべき姿に再構築したい。
新しいアンサンブルを作り発展させるために、
本質的な努力と研鑚が求められる。
そのためにも家庭は大事であり、
長い時間がかかることでもあるので、
一時仕事や活動を犠牲にしても家事育児に協力を惜しんだつもりはない。

しかし、ワタクシが教えた生徒の中でも最低クラスの生徒であった。
才能が問題ではない。
学ぶことが必要な音楽家にとっては生徒と同じことで、
学ぶ姿勢とその意識がなければ話にならない。
本人にしてみれば妻という立場であって、生徒であるという意識はなかったのかもしれない。
学び自分が変わることがなく音楽を続けることはそれなりにできることかもしれない。
しかしそれが多くの問題と限界を生んでいることなのだ。
今の自分で音楽ができるとしたら、それは幸せなことである。
しかし、ゆっくりであっても変わることのない音楽家は限界がくる。
学ぶことは自分が変わること。
自分を変える意識をもたないのであれば、学ぶことの意味も成果もすくない。
多くの人たちは、自分らしさを問い、求め、
ころころ変わる自分であっても、
自分の気持ちを大事にする。
わがままな?今の自分の心を後生大事にし、
あたかもそこに音楽があるとでも思っているかのようだ。
自分を捨てたところにある本当の自分らしさが必要なことなのに。

多くの才能が、長くない期間でそのためにつぶれていく。
自分の選択で自分がつぶれるのであればそれでもしかたがないのだろうが、
周りまで巻き込んでつぶれてゆくことは不幸なことだ。

ふつうのカミサンとしては満点といってもいいであろうが、
残念なことだがまだまだ理解してはもらえないだろう。

結婚前に、カミサンの親戚がそのすじの人から、
カミサンのご先祖は一緒にさせたがっていると聞いてきた、
という話をきいた。

その意味がとてもよくわかる。

また、知り合いのカミサマは、晩年にいいといっていた。
示してきたことを反芻することができるなら、たぶん、それもそうだろう。

しかし、今とてもむなしく大きな損失を抱え、
のびのび仕事ができない状況になってしまったことは、
社会にとってもおおきな損失のはず。
他人事のように、もったいないとおもう。
(うぬぼれではなく半分投げやりにである。不愉快かもしれないが、今は仕方がないと思ってもらいたい)

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