Tuesday, September 14, 2010

あたらしいしごと まえがき

 私たちは大宇宙(自然)から見るとほとんどないも同然の存在です。しかし、それでも自然の構成の要素です。大宇宙の法則に従って変化してゆきます。抗(あらが)っても仕方がないことです。
 しかし、ヒトは一人一人意思を持ち、思いを膨らませ、思考を組み上げて、学問を体系付け、科学技術を発達させてきました。自然に添って生きてきた過去の生活から、より快適な暮らしを求め自然から遊離し自然を克服しようとしています。また一方、他に高度な知能を持った生き物がいないことから、万物の霊長と考え、自然界の中の最高の生き物、最高の存在として君臨しています。
 学問、科学万能の思いからそれらの基礎になる知識の習得に関心が集まります。膨大な知識の習得がヒトの価値であるように思い込む人たちも出てきました。以前は腕力や経済力の強いヒトが集団を率いていました。わが国では知識のあるヒトが集団を導くようになってきました。多くの知識があっても実現力はまた別物です。どこかの国ではディベート(討論)能力の高いヒトが求められています。ディベート能力を高めるためにはパッシブ(受動的)な知識を高めるだけでは済みません。競争相手を論破するために多くのアクティブ(能動的)な知恵を集めます。
 わが国では同類が集い、意志を通じることを重視し、セクト(派)を形成し、その集団の力に期待することになります。しかし、受動的なヒトビトが集団を形成してもその集団が急に能動的な性格にかわることは少なく。集団のなかの「思惑の集合」に振り回され、集団の中で少しでも統率力のあるヒトに依存することになりがちです。
 知識はごく限られた範囲での思考の体系の「結果」です。その「結果」をつなぎ合わせて理論をつくるわけです。選ぶ「結果」と組み合わせ方で無数の「正しい理論」が生まれてきます。こうした理論を研究し、実践する場合、「理論のすべては自然の法則のごく一面しか現すことができない」ものになっていることを肝に銘じていることが必要です。ただ理論に添って処理していては現実から離れてしまうことがあります。切り捨ててもかまわないものであればいいのですが、あなたがその対象になったらどうですか? 過去の姥捨て、魔女狩り、棄民、大量虐殺の習慣や理屈も「その集団にとって正しい理論」といえるものです。
 「頭が良い」ということは「暴力が強い」と同じような単なる個性です。ヒトの価値ではありません。他のヒトの尊厳を感じない「頭の良いヒト」(自分の尊厳はある)が集団を率いることは不幸です。あからさまないじめはなくてもじわじわ、行動力のある統率者であれば急速に差別が進行してきます。そしてそれが当たり前になってゆきます。
 宗教もいつしかそうなっていないでしょうか?カミサマのおもいをヒトが聞き取り、ヒトの集団が教義をまとめ、それをよく理解した頭の良いヒトが人々を指導する。宗教理論がまとめ上げられ、さまざまな宗教が出来上がります。その宗教どうし差別したり、攻撃したり、おかしくないですか?
 カミサマはよく変化(へんげ)してヒトの前に現れます。名乗る名前もその時の状況によります。たとえば、あるヒトがあるところAに出現したとき「親につけてもらった名前」を名乗り、Bに出現したときに「オジサン」といわれ、Cに出現したときに「係長」といわれたとする。やがてその人の言動は教えとなって確立し、A地区の「親につけてもらった名前」教、B地区では「オジサン」教、C地区では「係長」教が興ったとする。やがて、それぞれの地区で信じたヒトたちがそれぞれを邪教とし、入り乱れて乱闘するさまはおかしくも哀れではありませんか?
 「なぜカミサマはすべてを伝えなかったのか?」という疑問がわきますが、「ぎゃくにそんなに理解できますか?」と理解し切れない事位はヒトの自分でもわかります。教育でも同じことをオーム返しに伝えることが教育ではありません。その人の状況を洞察して最適な処置をすることが理想です。そのヒト(たち)にあった言葉、行動が最高の教育です。教えを受けたヒトがそれぞれ自分の宗教を興し、一番の教えと自慢することは微笑ましいものですが、差別したり、攻撃を始めることは開祖以後のヒトの、何らかの思惑なのではないでしょうか。
 いま、わが国では知識階級の一部には神仏、幽霊、妖怪を想像の産物として存在を否定する風潮があるようです。どうも妖怪「妖怪隠し」は知識の層に獲り憑き、自分の知っていること以外は存在しないと思い込ますようです。(怖いからかも)妖怪は知らないけど、現にカミサマはいますよ。いろいろおもしろいことをいってくれます。それらの話はいずれどこかで。。。まずは稼ぐために、、、つづく

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