美
美は感動を喚起する。
感動は文字通り、こころが何がしかの作用を感じてこころが動くこと。
心を閉ざしていれば感動はない。
こころがなにかを求めていれば引っ掛かってくる。
そうしたこころを取り入れることによって、心は変化してゆく。
こころは潜在的に新陳代謝を求めているゆえに、
興味、好奇心、探究心を持ち、愛、美、、、を求めてゆく。
これらはこころの成長、変化には必要なものである。
愛や美はそれ自体エネルギーである。
現代美術において美の概念は大きく広がったので、伝統的な美にとどまらず、
新しいもの、奇妙なもの、汚いもの、不気味なもの、怖いもの、愉快なもの、不愉快なもの、腹立たしいもの、へたくそなもの、へんてこなもの、あきれたもの、ばかばかしいもの、否定的なもの、・・・
それらは、心が惹かれることにおいて美の対象になっている。
そこでは、必ずしも「良い」とまで至らずとも、「好ましい」「個人的に好き」「おもしろい」というものも含まれてくる。
確かに「好き」は「良い」という気持ちにつながり、「美」は「良い」という概念につながっている。
これらは仲間ではある。
だからといって「好き=美]というのは飛躍が大きい。
「好き=美」は個人的には成立するのだろうがこころの中の動きが強い。
「良い=美」は不等号がふさわしいのであろうが、かなりいい線いっている。
「良い」と判断するのは個人的な心の動きだが、
「美」という無形の存在からエネルギ~を感じ取って、「良い哉」と感じるのである。
現代美術の一風変わった作品においても、
「美」を感じ取るがゆえに「良い」と思う心が確認され、美の概念が広がったと見るほうがいいと思う。
「おもしろい」と思うものはあくまでおもしろいものであって「美」とだいぶはなれたものもある。
ここで言う「美」は、残念ながらワタクシ個人の言葉であって、漢字の意味とは異なる。
ウィキペディアの美には難しいことが書いてあるが、下のほうに漢字の由来がある。
自己犠牲の上に、「美」「義」「善」があるということは興味深い。
ということは、「美しい国」ということは、「自己犠牲を強いる国」とも読める。
都合の良い解釈はさておき、
「美」「義」「善」が、自分(擬人化して)のエネルギ~を放出しつつ「美」「義」「善」として存在しているのであれば、
極論として自己犠牲とも言えなくはない。
「義」は「我」が含まれていることからも個人的なもの。
「美」「善」は個人を含むすべてに存在しうるものである。
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