Wednesday, January 31, 2007

恐怖の薪つくり

50日ぶりに薪つくりの挑戦。
チェ~ンソ~を使い、腰をかがめての仕事にあおられて腰を痛めた経緯があるので、
きょうはおそるおそる。。。
で、ほんのすこしだけ。
甘やかしてきたので、やはり背中、腰は疲労感が残る。

さらに甘やかしてチョットお休み。
これからビシバシ甘やかしつつ働かせるぞ~~

カスピ海ヨ~グルト

ピンチ。
冬場は寒いので少し温めた牛乳を加えていた。
その後、アルミ蒸着マットを被せて、ほかの季節(常温育成)よりむしろよい状態のヨ~グルトができていた。
ゆうべ少し熱いかなと思った牛乳を入れたら、
ぎゃ~と騒いだような気がした。
とたんに牛乳がレモンを入れたときのように分離した~~~

あ、ぁぁっ。めんご~~

一晩経ったところで上のほうは分離していたが、
下のほうに生きている手ごたえを感じたので、
再度攪拌して、うまく育ってね、とお願いしておきました。
低温で活躍する菌がお亡くなりになって、性格が変わるかも。

以前、電子レンジで暖めてやばい~~と思ったことがある。
痩せ型(おなかの丈夫でない)人はヨ~グルトを暖めてとるほうがよいが、
電子レンジは使わないほうがよさそうである。

Tuesday, January 30, 2007

4000km


やっと4000km越えました。
去年中にも、と思っていたのに思わぬダウン。

Monday, January 29, 2007

ビンシャ~マン


ヘルム~ト・ビンシャ~マンの夫婦漫才ではありません~~かも??

バッハのヨハネ受難曲を聞いてきた。
なつかしい顔がいっぱいあった。
ビンシャ~マンから直接は教わっていないが、
ルネッサンス期の多声部の曲の指揮に悩んでいたとき、
彼の指揮を見て啓示を受けた。
当時、いろいろな指揮者に聞いてみても、
わかりません、むしろ私のほうが知りたいとか、
依頼があったら現代の指揮法で何とかする。。。などといわれていた。
今日の彼の指揮とは違っていたが、
ただプンクト(点)を示すだけ。
あ~これでいいんだと納得。
そして、グレゴリオ聖歌のキロノミ~を塩梅するとOK。
むしろ、こっちの方法がすべてを指揮できる感じがする。

ビンシャ~マンの音楽はいい。
もっとメンバ~がなれるといいな~

Saturday, January 27, 2007

ぶる~

ひさしびりにぶる~~
てんき?
ふところ?もちろんだがちがう。

自分由来でないなにか。

いままでテロとか大きな自然災害とかの前によくあったかんぢだが、
やりきれない思いまではない。
これは人の哀れな性によるものではなく、
不可避なもの、自然災害などによくあった。
しかし切ない思いは同様である。
せめて最小限の被害ですむように祈るだけである。

Friday, January 26, 2007

きょうは県美


2日連続でお出かけしました。
昨日は22km今日は28km、今月中に4000km達成の予想です。

県立美術館でエルミタ~ジュ美術館から借り出した、ガレなどの作品。
ん~
もっと質のよいものもあると思うけど、波長が合わない。
見ているうちにデパ~トの売り場にいるような感じがしてきた。
つくるのはとても難しいのだろうが、あくまで工芸品に見えてしまう。
比較にはならないだろうが、常設の鈴木盛久の鉄瓶などのほうがよく思える。

これらは写真に取れないので、画像は中庭に設置してある真板氏の作品。

Wednesday, January 24, 2007

つちざわで


さすがにチャリンコで行く気にはなれず、
便乗させてもらいました。

でんきやさん

仕事ができるようになって、頼まれ物の修理をしました。
続いて頼まれたアンプの作製のために、
試作、実験をしています。

まだ頭の中は電気屋さんモ~ドになりきっていませんが、
低擾乱アンプ(ハイコントラストアンプ)は確実に進化しています。
見た人は本当にこんなので音が出るの?と言います。
だから外側は思いっきり贅沢にして中身は見せないほうがいいのかも。
でも、外側を飾るとコストがかかるのでいまは出来ないな。

Saturday, January 20, 2007

しんすけ?

腰イタがよくなってきたと思ったら、今日はからだの右側、
いつもの違和感。
F-net遠野山崎を見てみると微小地震が目に付く。
地震のしんちゃんか?
もう少し大きなしんすけか?

いっぷくして、おしごとしよ~~

しごとはじめ

とゆ~ことで、
昨日、仕事始めに至りました。



あけましておめでとうございます。
ことしもよろしく。

こしいたでないか?

腰イタで内科に行って早2週間。
少しはよくなっているが、劇的にはよくならないと思い、
薬が切れたので再診をしてもらった。

診断は、順調なんだって。
薬もそのまま、あと一月続けるようにとの仰せ。
じわじわ良くなると言うことらしい。

ま、そういうことなら気長に行くか。
ということで、
腰イタには内科も選択肢の一つ、ということになる。
といっても、
まず普通の内科では診てくれないだろう。
診てもらっている「ポランの内科クリニック」の先生も、
積極的に宣伝してない。面倒なのが来るとこまるから。。。って?どういうこと??
少しづつ腕を磨いていくつもりのようである。

なお、きたる鳥インフルエンザの大流行についても漢方薬の併用は有効であるとの自信をうかがえる。(先生の記事を見た)

Thursday, January 18, 2007

美 その3

よをこえて~~ぇぇ
ぎしんはむなし~~~
ぜんなれば~~~~ぁぁ
びはかなたから~~~
あいはかなたへ~~~ぇぇ

妖しくも読めるが、

善なれば
偽真は空し
世を越えて
美はかなたから
愛はかなたへ

にしておくか。
漢語由来は和歌に似合わんな。

美 わかりやすいってか??

文字で、ロジックで説明不能な概念(これもロジックだろ)を文字で説明するのは途方にくれる。
短く、ポンポンと書いたほうがよりわかりやすそうに思える~~

「美」はその存在からある種の「愛」(エネルギ~)がにじみでている。
それゆえ「美」はこころをひきつける。
こころは「良い」ものを得たと思う。

しかし、「美」は多様であり、第三者から見れば、
なんだかな~と思うものもある。
「美」はこころをひきつける作用があるものであるから、
下心を含む「美」もある。
「美しいものには毒がある」とよく言われるのはこのためか?

よい「美」はよいこころを深層に含んでいる。
「美」の最高のものは「善」である。

美は感動を喚起する。
感動は文字通り、こころが何がしかの作用を感じてこころが動くこと。
心を閉ざしていれば感動はない。
こころがなにかを求めていれば引っ掛かってくる。
そうしたこころを取り入れることによって、心は変化してゆく。
こころは潜在的に新陳代謝を求めているゆえに、
興味、好奇心、探究心を持ち、愛、美、、、を求めてゆく。
これらはこころの成長、変化には必要なものである。

愛や美はそれ自体エネルギーである。
現代美術において美の概念は大きく広がったので、伝統的な美にとどまらず、
新しいもの、奇妙なもの、汚いもの、不気味なもの、怖いもの、愉快なもの、不愉快なもの、腹立たしいもの、へたくそなもの、へんてこなもの、あきれたもの、ばかばかしいもの、否定的なもの、・・・
それらは、心が惹かれることにおいて美の対象になっている。
そこでは、必ずしも「良い」とまで至らずとも、「好ましい」「個人的に好き」「おもしろい」というものも含まれてくる。
確かに「好き」は「良い」という気持ちにつながり、「美」は「良い」という概念につながっている。
これらは仲間ではある。
だからといって「好き=美]というのは飛躍が大きい。
「好き=美」は個人的には成立するのだろうがこころの中の動きが強い。
「良い=美」は不等号がふさわしいのであろうが、かなりいい線いっている。
「良い」と判断するのは個人的な心の動きだが、
「美」という無形の存在からエネルギ~を感じ取って、「良い哉」と感じるのである。
現代美術の一風変わった作品においても、
「美」を感じ取るがゆえに「良い」と思う心が確認され、美の概念が広がったと見るほうがいいと思う。
「おもしろい」と思うものはあくまでおもしろいものであって「美」とだいぶはなれたものもある。

ここで言う「美」は、残念ながらワタクシ個人の言葉であって、漢字の意味とは異なる。
ウィキペディアの美には難しいことが書いてあるが、下のほうに漢字の由来がある。
自己犠牲の上に、「美」「義」「善」があるということは興味深い。
ということは、「美しい国」ということは、「自己犠牲を強いる国」とも読める。
都合の良い解釈はさておき、
「美」「義」「善」が、自分(擬人化して)のエネルギ~を放出しつつ「美」「義」「善」として存在しているのであれば、
極論として自己犠牲とも言えなくはない。
「義」は「我」が含まれていることからも個人的なもの。
「美」「善」は個人を含むすべてに存在しうるものである。

美は善の仲間

くるったようにまくし立てています~~
で、わかりやすくかくまえに、
結論を書いて今日はおしまい。

よい、好き、は美の仲間。
美は善の仲間。

かんしゃ

謝ることと感謝。

どちらも謝が使われているからわかるように関連がある。
どちらもこころを捧げることでは同じ仲間ではある。
がしかし、謝ることは詫びること、わぶること、
地獄の世界に割って入り、こころを捧げ続け、自分をそこから永遠に動かさないこととおそわった。
ありがとうは天国につながり、ごめんは地獄につながるのだと。

感謝は愛の仲間であり、感謝の祈りは慈愛と同じものである。

いのり

宗教としての祈りはカミサマとこころをつなぐ方法である。
Religion(宗教)はRelation(繋がり)と語源が同じだそうである。
手と手をつなぐのではなく、こころとこころのつながり、
おもに、仏教では喉仏と額、頭のてっぺんがカミサマと交流するところであるといわれる。
だが、祈りに重要なところは頭のてっぺん。
そこから祈りのこころを送り出すのである。
でも、その祈りがご利益や都合の良いものなら、
もしアナタがカミサマだったら、聞き入れますか?
ホニャララ団のようなカミサマだったら聞きいれてくれるかもしれませんが、
・・・ワタクシはこれ以上いえませんです。
でも、仮にホニャララ団のようなカミサマに絡まれたとしても、
ほかの人のために祈っていれば、必ずよいカミサマにつながります。

宗派としての宗教はいらないと、怖いけれど?断言します。
ほかの人たちのために祈ること。
これが初級であり、上級者の行です。
でもさらによいことは、
なんとかしてくれ~~とか、
助けてくれ~~~とか祈ることが多いワタクシめには、なかなかムズカシ~~ことでもありますが、
感謝のこころで祈ること。
これができていれば、じねんに道はつながってゆくはずです。

Wednesday, January 17, 2007

祈りそのまえにうた

ひとくちにうたといってもこれまた多様である。
日本語ではうたにこれだけの言葉を当てている。

唱、歌、詩、和歌、唄、詠、謳、謡、、、
これらは形式のみならず、多彩なこころを伝えるためのうたの種類として表される。
ひとのこころは多種多様多彩なので、
うた以外にも心を伝える言葉として、
訴える、語る、ほえる、恫喝、、、など多彩である。
そして拝む、願う、祈る、、、などもこころ伝達(言うならばコミニュケ~ション)の方法である。

うたうという行為もその性格から並べてみると、
祈祷(一応これも入れておく)
詩、和歌、
唱、詠




さらにそれぞれの中に、(位相、あるいは座標が違っているのだが)
祈る、
願う、
拝む、
語る、
訴える、
吼える、
などの意識が共存しうるようである。

形としてうたを発するだけではなく、こころの現われとしてのうたでなければ騒音と同様である。
こころの現われが感じられて、それぞれのこころに共鳴、共感するものが、その時々に支持されるものであろう。
それがその時々によいものといわれるであろうが、
もう少しはなれたところから見ると、本当によいものかどうかはまた別の話である。

あ~、ことばでせつめいするのはむずかしい~~~

1月14日のゆめ

なぜかシブヤだといわれたように思われた。
しかし、街並みは木造の2~3階の洋館風のものも、多くが廃屋である。教会らしい塔も見える。
まもなく再開発されてきれいな街になるとのことらしい。
とくに誰から言われたわけではないのにそう伝わってきた。
なぜかCanonの一眼レフ(もってないぞ)に、50mmの標準レンズをつけて歩いていると、
若い女性から声をかけられる。
「それ、いーですね。私のはここ(レンズ)がおかしく、それ2~3分貸してもらえませんか?」
見るとレンズの前玉が少しズレている。
いいよ、と貸そうとレンズを外すと、純正レンズだったはずなのに、マウント部分はタムロンのアダプト~ル風。(オタク向き?説明)
女性はカメラにつけようとするが、件のマウント部分だけが外れて落ちてしまう。
その後、写真を撮ってもらってから廃業寸前のカメラ屋があったので、
Canonの標準レンズなにか残ってないか聞いてみると、
ないけど、これならあると出してきたものは、
コンバ~ジョンレンズのようなもの(単レンズ)にヘリコイドがついたもの、
絞りは黒い板に丸い穴の開いたものを付け替えるもの。
価格不明。
安くしてというと500円。(ほしい~~)
女性は2000円ぐらいならと、ひきとっていった。

女性が撮影した写真のプリントを持ってきた。
ワタシをとった写真のワタシはなんと、親父そっくり。
親子だから似ていてあたりまえだが、あまりによく似ている。
というよりそのまんま!。
(いろいろだったから、こういう形で出てきたんだな。シャイなの。)
横向きポ~トレ~ト、アップのバックに二匹の龍の図。(看板?)
二匹の龍の口とオヤジ(自分のはず??)の口が、ポンポンポンとフォトジェニックに?
きちんと並んでいた。
中国の皇帝の末裔なんだぞとでも言いたいのか??
ま、ル~ツ不明だから、何とでもいえる。
皆、アフリカの「イブ」の子。

ゆめはなぜか比較的、中心(駅)から南の方向、そして西の方角に活動の場がある。
去年よく行った町は南→東の方角。

Monday, January 15, 2007

背骨が動く

腰イタはだいぶよくなっているようだ、
がしかし~
背骨の並びがいいときと、でこぼこになるときとがある。
マキ運びをすれば確かにズレる。
出っ張った骨を指で押しながら、
こんにゃく体操よろしく体を丸め、
下の骨から一個づつ起こしてゆくと、並びが良くなる。
強く押しても同様のようだ。
しかしなにか作業を続けていると、またズレる。
芍甘黄辛附湯(しゃっかんおうしんぶとう)の薬効はわずかづつあるのだろう、
以前よりずっと背骨のみならず、体のあちこちの硬さが取れているようだ。



マルメロが好評っだったので、
昨日は花梨(カリン)を産直までいって買ってきた。
薄い焼結チタンの包丁を研いで、手付かずにいた新巻を捌いて、
カリンを捌いた。
このチタンの包丁は普段使いには、薄く軽すぎて必ずしもよいとはいえないが、
干し肉や、硬いカリンのようなもののさばくには好都合である。
滑りやすいので、半分にするときは新聞紙などの上で。
8分割したかったが、危ないので4分割でおしまい。
よく切れない包丁では危険である。

カリンの煮汁はとても深いルビ~色になった。

しゅうきょう 2

いきなり再掲しますが、

もしアナタがカミサマだったら、
何もわからない野蛮人(失礼。差別用語かもしれない。未開の人という意味ではない。文明人でもいい)に教え諭すとしたらどうする?
まず、やっていいことと、よくないことを教えると思わない?
それから、それまでの文化習慣に沿った上で、わかるたとえでいろいろ教えると思う。

そこで得心した人たち、あるいは教えを授かった預言者たちはは、
直接カミサマと対話できない人たちのために預言としてことばで伝えると思う。

これでカミサマのこころを理解と行をおこなうことで
カミサマのこころを得心し、共感する道をたどりやすくなったとおもうでしょうが、
実はズレていることに気付かないことがあります。

後日正しくないことをしてきされるとこまりんぼになる~~と、
教えの矛盾を正したり、わかりやすく修正したり、都合の良くないところを削除したり、
人の集団の中で「決定版!聖なる教え~」を作りかえてゆく。
ここまでは信者のためのわかりやすい教えということで納得もできるが、
疑いを持たず、集団の中で行を行い、離反しないように、
やがて、階級、格差構造をしっかりつくること、経済的な基盤をつくるために、
総会に都合の良いように「これらの教え」を遵守し「戒律」を守ることを要求するようになりはしないだろうか?

前にも書いたけれど、
頭の隅っこで理解し、尚且つ共感したばあい、
全宇宙的理解、共感ではなく、単に個の中の理の範疇で共感し得心しただけ(悟ったつもり)になっていることがある。
(ま~一応自分のことは棚に上げていますが・・・うっ、、そのと~りでございますだ。。。)

カミサマのこころとは少しズレたところで、
人々は集団を形作り、
人の意志が紛れ込んだ集団の意思すなわち、カミサマの御心でア~ルということにならないだろうか。

もし、アナタがカミサマなら、こうした集団をどうしますか?
しっかたないな~~
と思いつつ、見捨てることなくフォロ~しませんか?

また、もしアナタがカミサマなら、
状況が変わっても、以前の教えを頑なに守り、
これだけが正しいのだと、じょっぱる(情張る、または強張る)人をどうしますか?
しっかたないな~~
と思いつつ、見捨てることなく、はらはらしながらフォロ~しませんか?

またx2、もしアナタがカミサマだったら、
理解はトンチンカンでも、心優しく、人のために尽くしている人を見たら、
えこひいきをしないまでも、とてもうれしく思いませんか?

カミサマたちもそう思ってるみたいです。

Sunday, January 14, 2007

さて、しゅうきょう

ほんとうにこまったちゃん。
醜教、讐教、執教とでもいえるものがちらほらみえる。
これらは人の欲につけ込んでみたり、
憎悪を増幅させてみたり、
正しさに固執してみたり、
カミサマの思惑とは別に人の都合で純真な信者たちをXXしているようにみえる。

もしアナタがカミサマだったら、
何もわからない野蛮人(失礼。差別用語かもしれない。未開の人という意味ではない。文明人でもいい)に教え諭すとしたらどうする?
まず、やっていいことと、よくないことを教えると思わない?
それから、それまでの文化習慣に沿った上で、わかるたとえでいろいろ教えると思う。

文化習慣が違えば、説明が違っても仕方ないとおもうけど、
混乱しないようにカミサマはいろいろいるけど、
ワタシ一筋に信じていきなさい、と言うかもしれない。
信じない人にも伝えなさい、と言うかもしれないが、
殺してしまえ~~というだろうか?

もし言ったとしたら、器量の狭いカミサマと言うことになる。
そういうカミサマには躊躇なく、もっといいカミサマになるべきだよ、
と諌めて、さよならすべきだ。
もし、怖い目にあいそうだったら行動する前にひたすら祈ればいい。
人の都合で変質してしまった集団に対してもカミサマは見捨てるわけに行かず、
それなりにフォロ~しているだろうが、おそらく嘆いていると思う。
だれかいいカミサマがきっと聞き入れてくれるし、
ワタクシには到底まねが出来ないが、
いいカミサマは、疑いの心を向けても誠実に対応してくれる。

あいはなんかい? ほそく

愛に限ったことではないが、こころは移ろうものである。
同じように愛していると思っていても、いつしか変わっていることがある。
むしろ変わって当然だが、よいほうに変わるとは限らないし、
自分の都合とか、心のままに変わって周りは困ることがあるだろう。
愛は恐ろしい部分も抱えている。

肉体もこころも移ろうものであるように、
愛も新陳代謝して変化しているのである。
薬にもなれば毒にもなる。
言葉には言葉の意味と、発する人の思惑が含まれて二重構造になっているのと似て、
愛も、愛の種類ともうひとつ、こころが含まれている。
これが良いこころかそうでないか、わかるひとには直感的にわかるのだろう。
良いこころを本当の愛といってもよいが、説明がよけい混乱するだけなので、
良いこころからの愛と、そうでないこころからの愛と言うように区別したほうがわかりやすいと思う。

警戒レベル4.5以上

千島列島キリルアイランドM8オ~バ~の地震で日本近海の巨大地震が時間の問題になってきた。
これからは常に警戒レベル4.5/5以上であると思っていたほうがよさそうだ。

11月15日のM8.3(USGS)の余震が起こらないまま、ほぼ2ヵ月後にM8.2(USGS.現在値)のほとんど同規模のものが発生した。
2004-12-26スマトラM9.1、ほぼ4ヵ月後の2005-3-28同M8.6あたりから特に、
マリアナ、太平洋プレ~トの動きが目に付く。
既に、トンガ、インドネシアではM8レベルの巨大地震が発生している。
フィリピン、台湾、そして日本列島でいつ発生してもおかしくなくなっていると考えても不自然ではない。

腰の痛みもこうした、だいしんすけの影響を受けていたのかもしれない。

Saturday, January 13, 2007

附子湯



チャングムを見たら、毒殺のために附子湯を飲ませていた。(解毒は緑豆)
自分の腰痛の薬に少し入っている。
要はトリカブト。
だからきちんとした処方が必要なのだね。
なんだかうれしいような怖いような。。。

今日は既に2度寝たので、だいぶよい。
マキ運びもしてないし。
背骨の位置も昨日よりずっとよくなっている。

Friday, January 12, 2007

おとといはよかった

って、こし。
背骨もずっとすっきり並んでいた。
漢方で、背骨の並びも良くなる!
と思っていたら、
いまは(昨日)マキを運んだら、また3日前に戻ってしまった。

なれない○歴書でも書こうかとPCに向かうが、
腰がまた。。。。。

Thursday, January 11, 2007

いま、これからひつようなものは

行政においては、機構改革ではなく公の精神。
義務教育に愛国心教育を義務付ける前に、
公務員に公僕心教育を義務付けるのも悪くはないだろうが、
全公務員思いやり100年計画のため採用基準を変えようよ。
優秀で、お金を儲けたい人は民間で存分にやればいい。
将来の安心感がほしいひとは、見栄にこだわらず、つつましくくらすにかぎる。
否応なくつくられた格差社会は差別を許容し、差別があるところ、軽視、軽蔑、憎悪のこころを育てる。
同様に世の中のためには宗教ではなく、宗教心。

あいはなんかい? きゅうかいめ いちおうおわり

愛はさまざま。
愛は愛だけで存在しても価値は少なく、
「自分ヲ勘定ニイレズニ」と賢治は言ったように、
自分のためでなく、ただひたすら善なるこころが伴っていなければありがたみがないのである。

以上、言葉で説明せざるをないが、理解は不可能である。
すべて実感することなく得心することはできない。

えらそ~なことかいてごめんね~~

Wednesday, January 10, 2007

あいはなんかい? はちかいめ

愛は難解であるが、心のエネルギ~、こころの栄養だと理解すればわかりやすい。
食餌療法というものがあるが、愛によっては薬と同じ、よくなるものもある。
カミサマたちからの愛は特に慈悲というが、
慈はめぐみはぐくむ、薬を与える、悲は苦しみをのぞくということだという。
慈愛は母が子に与える愛。(もちろん母だけではないが)

わかります?ほかの愛とちょっと違いますよね。
自分に何のメリットがありますか?
見返りを期待する愛があふれかえっている中で、ただ与え続けるだけ。
いい学校に入って欲しいとか、公務員になって欲しいとか思いながらではないはずです。
もっとも、成長するにつれて、なにか少しづつ変わってくるような気もしますが。。。

最後にあまり愛とは言われていないけれど、感謝は愛なのである。
感謝は自分の中ではひとつの思いに過ぎないかも知れませんが。
口先でない感謝を表すというのは慈愛に似たこころをささげることなのです。

とりあえず、ここまで。
(訂正や差し替えの可能性があります。)

Tuesday, January 09, 2007

あいはなんかい? ななかいめ

愛はすべての特効薬のようにも思われているが、
実は嘆かわしいことに、
いわゆる悪に対しての愛もあるのが現実なのである。

ホニャララ団に対しての愛。
ペテン、捏造、陰謀に対しての愛。
人より物やお金に対しての愛。
軍隊に対しての愛。
戦に対しての愛。
こまった国に対しての愛。
独裁に対しての愛。
人を支配する立場に対しての愛。
人をさげすむ行為に対しての愛。
格差社会への愛。
人の不幸は蜜の味に対する愛。
自分(「のみ」をつけておきます)に対する愛。
エライ人に対する愛。
悪賢い人に対する愛。
呪いのカミサマに対する愛。

だんだん恐ろしくなるので列挙はこのへんで。
中世、高い教養を持ち、思慮深く愛情あふれる神父が魔女狩りに情熱を燃やしていたとか。
本当に良いことかこころの底に問いかけた末のことなのでしょうか。
教義を遵守し、頭での明晰な判断、強靭な決断と実行の賜物ではないのでしょうか。
愛があるからと確信を持ってたんでしょうね。

愛はあいまいなものだったのですね~~

あいはなんかい? ろっかいめ

ふたたび愛。

新約聖書、コリント前書13章
よく結婚式で朗読される有~名~なくだり。

たとえ我諸々の国人の言及び御使の言を語るとも
愛無くば、鳴る鐘や響く鐃はちの如し。
たとえ我預言する能力あり、また全ての奥義と知識に達し、
また山を移す程の大いなる信仰ありとも、
愛無くば数うるに足らず。
たとえ我、我が財産を尽く施し、また我が体を
焼かるる為に付すとも 愛無くば、我に益なし。

愛は、寛容にして慈悲あり、愛はねたまず、
愛は誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、
おのれの利を求めず、憤らず、人の悪を思わず、
不義を喜ばずして、まことの喜ぶところを喜び、
おおよそ事忍び、おおよそ事信じ、
おおよそ事望み、おおよそ事耐うるなり、
愛はいつまでも絶ゆることなし。

パチパチ。(←拍手の音)
けれども、バチアタリの私にはとてもついてゆけんな~
というのはさておき、
前半はアメリカを始め、組織の長、宗教をふくむ指導者、行政、、、
そのほか「偉い」と自他共に思う人たちの肝に銘ずべきものと言いたい。(←言っている!)
後半は、こうあらねばならぬぞ!といっているのではいじめにほかならない。
1)知らなかったでしょ。こうあるのが理想であるぞ。頭の隅っこにでもいれておきなさい。
2)理想に対して精進しようね。
3)「体得した」、とおなじように「心得た」が常態になろうね。
ま~、凡人にはこうしたものでゆるして~(だれが?)というところ。

前置きが長くなったけど、前半に注目している。
才能、超能力、技能、知性、教養、信仰、加えて正誤、真偽をふくめて愛がなければ意味ないよ~~
といっていること。

では、愛があればいいのか?

二度目のゆめ

とても興味深い夢を見た。
友人の巨匠が自分の作品に似たものをつくったが、
さすが巨匠、圧倒的によかった。脱帽。
考えてみれば、巨匠の作品といってもこの世の現実では巨匠の作品ではないはずだから、
ぱくってやれ~~ (^^;v
と、言っても、どちらも実現困難なもの、というより不可能なもの。
ま、参考にするぐらいか。

二泊一日

一泊二日ではありません。二泊一日。
座っていると腰が痛くなるので一眠りしてまた起きる。
あっ~
ひさしびりに三食することが出来たので、
三食二泊一日。
むちゃくちゃだな~~

Monday, January 08, 2007

ゆめ

おきてなお記憶に残る夢。

なぜか昔の呉服店みたいなところでかス~ツを選んでいるが、ない。
自分のス~ツは洗濯に出したまま返ってていない。

あいだの記憶はない。

となりの子供が化学物質過敏症でぐあいがわるい。
近所の農薬が入らないように窓を直そうとするが、
どこかのオバサンの手際が悪い。
窓枠もゆがんでいるしガラスも曲がっている。

そのうちいつの間にか割り箸細工の模型のようにちいさくなっている家の壁も剥がれ落ち崩れはじめる。
見ると接着剤が肝心のところについていない。
これじゃ駄目だよ~といっているうちに大部分がばらばらになってしまった。
これじゃ、最初からきちんとやり直さなきゃ駄目じゃん。
と、ため息をついたところで目が覚めた。

祝 盛商!

いや~いがったですね。

小笠原のようなス~パ~スタ~はいなかったものの、
小粒といわれた選手たちが、よく守り、よくパスを出し、
冷静に緻密な試合をしたように見えました。

監督。お見事。地方だけにとどまらず、日本の有るべき姿を示していると思う。

あいはなんかい? ごかいめ

愛は何階?

愛はエネルギ~である。
そして、いろいろな種類がある。
明確であるかまではわからないが、階層、多層構造になっている。
こころが自在になってないと、わかりにくいだろうが、
こころが同様であるから、当然のことだろう。

行為が愛。SMふくめて?
愛玩、めでる愛。自分の位置から自分以下の対象に。
人と人、同じレベルの愛。これだけでも多様。
親心とでも言う慈愛。
カミサマから、人への愛。慈悲、慈愛。

では、愛こそすべて?
ちょっとちがう。
愛はよいことには違いないが、
最高の愛よりもよいものがあるといったら?

あいはなんかい? よんかいめ

愛はエネルギ~である。
一般に愛は限りがある。

愛は無限であるというのは、無限の愛の源とつながった人の話である。

愛を与え続けると、与え続けた人のエネルギ~は消耗する。
どこかでリフレッシュすることは自然の道理である。
自然の中に浸ったり、愛玩動物に触れたり、趣味に没頭したり、愛人のもとに走ったり、、、

愛を求めすぎる人は「後家相」。
愛をおしみなく与える人は「あげまん」??

はしたない言い方をしたが、愛を人に期待しすぎることはあまり勧められない。
逆のようだが、愛は与えて価値が出るもの。
与えて空腹になれば新しい愛が入り込む余地が出てくる。

どこから?
人よりエネルギ~の大きなものが望ましいのはいうまでもない。

あいはなんかい? さんかいめ

腰がいうことをきくうちに回数を稼いでおこう。

身体の栄養と同じく、
こころの栄養にもいろいろある。
母乳の中にはいろんな抗体があるといわれる。
無抵抗の体とこころに生存のためにひたすら心を配る。
乳児に虐待以外に、しつけを行う親を知らない。
離乳して初めて、しつけがはじまる。
思春期になって、親離れ、独り立ちできるようにこころをくだく。
何も出来ない、ということもあるかもしれないが、何もしないということもありうる。
(いいわけ~~)
うしろめたいこともあるが、ということで、
甘い栄養、苦い栄養、、、、さまざまなように、
甘い愛ばかり欲しがっていると、糖尿のようなこころに育つ。

あいはなんかい? にかいめ

前にもどこかで書いたと思うけど、
肉体は数多くの細胞で構成されて、一個の人体になる。
食物が栄養として取り入れられて、細胞が新陳代謝され変化を続ける。

生命も、こころも、まだほんの少しの実感しかないが魂も同様のようである。
肉体と、こころのあいだにあるとも言われるアストラル体もそうであろう。
生命の栄養がアストラル体なのであろうか?
しかし、アストラル体についてはまだ私にはわからない。

いのちも多くの生命の集合としてひとつの命。
こころも多くのこころの集合としてのひとつの心。
魂も多くの先祖やカミサマたちの魂が集まってひとつの魂を構成する。
しかし、このへんになると領域は明確ではない。

これらはすべて新陳代謝している。
こころの栄養はこころそのもの、そして愛である。
肉体に必要な栄養はさまざまであるように、
こころにもさまざまな愛が必要である。

人が生まれ、
母乳で育ち、
離乳食を与えられ、
普通の食物になり、
子供が生まれ、
母乳を与え、
乳離れさせ、
親元を離す。

同様に、それぞれの時期それぞれの愛が与えられなければ人は育たない。
人は愛を与えられ育ち、愛を与える立場に変身して行く。
愛を与えられるのはうれしいものだが、
いつまでも甘えて与えられようとせず、
自分や身内だけでなく、多くの人々に、
愛を与える立場になって欲しいというのがカミサマたちの切なる願いである。

あいはなんかい? いっかいめ

愛は何回?
ではなく、
愛は難解。

駄洒落はさておき、大事なことだと思うので書いておく。

愛は相。対象があっての愛。
そもそもはめでる、いとおしむ。
愛は合い。相聞、男女間の行為。
愛は哀。同情。
Loveの訳語としての愛。
仏教用語の愛。慈悲。

ごっちゃにしたまま、愛を語っても仕方がないが、
一般によくある誤解。

自分の心の中だけの思いは愛ではない。
それは、趣味嗜好、好みであって、単なる想念でしかない。
愛は、行動や言葉に出さなくても、こころを対象に与えることだ。

恋は特に異性に対する思い。
にじみ出るものはあるだろうが、自分の中だけのもの。
「愛をください」はありえるが、「恋をください」は変。

愛は多様なので、望む愛を与えられないと、愛されていないと思うだろう。
大きな愛を与えようと思っていても、自分を変えることなく小さな愛ばかり求められれば、
生身の人間、限りある時間では消耗してしまうことになる。

くっちゃね

時折パソコン。

少しはよくなってるのだろうか?
わからん。
しかし、背、腰のカイロは外していられるので、
よくなっているのだろう。
仕事ができるようになるまで生きのびられればありがたや~~

Saturday, January 06, 2007

まさゆめ


初夢は他愛ない夢で実現してしまった~~
何で雑巾がけ競争だったかというと、
これ。

今日の大雨で、気づいたときは遅かった。
こんなに広がって落ちているとは。
去年の10月はじめの嵐のときはまったく雨漏りはなかった。

腰イタは劇的にはよくならず、雑巾掛けして疲れたのでチョットお休み。

腰イタで内科

面白いじゃないの、直るもんなら皿でも食おうじゃないの。
とはいいませんが、一般には場違いの内科に行ってきました~~

お決まりの問診票に記入して提出すると、
漢方薬屋さんの紹介ならともう一枚記入してと、漢方用の問診票。
一応、おしっこもとって診察。
問診票に、あなたの一番治したい症状は何ですか?との欄が誘いかけるようにあったので、
つい、金欠、次に腰痛と書いてしまった。。。
見栄を張って、世界平和、と書くべきだったのだろうが、
俗物なのでつい。。。

先生はチョットこまったような顔をして、
これは難しいですが、腰痛ならと仰ってくれました。
経緯を説明し、舌を出して見せ、血圧、心音、
仰向けに寝かされ、おなかを押してみて、診察は終了。
おなかを押されたときは自分でもおなかが張っているのは感じた。
で、背骨や腰などは特に見ないけど、漢方ではそれでいいことを知っているので特に不安はないし、
薬も芍薬甘草湯に細辛、大黄、附子(全部読みどうりでは変換されない!)の、
3種混ぜたものであろうということを言われていたけど、そのとおりの処方でした。
診察は簡単だったが、お医者さんは好きな人が多い、アンプやカメラの話題で話が弾んでしまった。

帰ってから煎じると、とてもいい香り。
症状に合っているとおいしそうに香るから不思議。
飲むと甘くスパイシ~でおいしい。
芍薬甘草湯だけだとおいしくもなんともない。
こいつは効きそうだと思えるから不思議なものだ。

さ~て。
どのくらい効くものだろうか。
背骨の出っ張りも引くものだろうか。
つづく~~

Thursday, January 04, 2007

じぶんをかえるためにびょういんにいくか

覚悟して病院に行こうと思った。
背中の骨のひとつがずれているように思う。
その骨をあるべきであろうと思われるところに押すとなんとなく正解のような気がする。
体をねじりながら押すと微かにコキとなる。
そのたびに劇的に骨盤の中の痛みが消える。
しかし、これ以上なんともならない。
だれか背中をふんずけてくれる人でもいればいいのだけれど、
ネコでもいいがチョット軽そうだし、
カモシカさんは言うことを聞いてくれるかわからないし、
クマさんは怖いし、寝てるだろうから、
潮時かなと、だれか整体師をさがそうとおもったが、
知り合いの漢方薬屋さんにチョット話をしたら、
内科のお医者さんを勧めてくれた。
自信ありげに、漢方薬で治るけど、
薬事法で210種しか出せないので医者の処方がいる、
行っておいでといわれた。
え~~内科~~?
いわく、
そ~~漢方薬をよくわかってる先生だし、
自分のところにもよく意見を求めてくる。
参考で話した処方がそのまま書かれていたこともある。
治すことが第一、権威は関係ない。
そういうことができる偉い先生。

へ~おもしろい。
そう遠くないし行ってみるかな、と思いつつ、まだまだPC作業は腰が痛くなる今日この頃です~~

なぜべんきょうしなければならないのか

公共広告機構のCMでこんな問いかけがなされて、
大人たちは子供たちに答えられないでいました。

そんなにむずかしいことでしょうか?

変身~~!するためです。
変わるため。
今までの自分から、新しいあるいはよりパワ~アップした自分に変身するためです。

もはや自分を変えようと思わない大人にはとても難しい問題に感じるかもしれません。
大人は学んだことで自分が変わったということを忘れてしまっているのかもしれません。
あるいは、学んだことで自分が変わった実感がないのかもしれません。
だったら、もう一度学んでみるべきです。
頭の隅っこだけ小賢しくしてもそれは本当に学んだのではなく、
テストのために記憶した、あるいは処理能力を大きくしただけなのでしょう。

変身したことが実感できて始めて、勉強の成果が出たとなるはずです。
実感があって、初めて自分の意識が変わり、精神が変わり、魂まで変わるはずです。
今の自分のままで居たいなどと甘ったれた考えでいるかぎり勉強など出来ません。
厭々ただむだに時間をつぶすだけです。
自分を変えようと思って(たいていはどう変わるかわからずとも)学ぶべきです。
変身するために勉強する。
自分を変える覚悟で勉強する。
あ~耳が痛い。(反省)

Wednesday, January 03, 2007

いやな日

腰イタもよくならないし、
不安感も残る。
そ~言えば満月だし。

GyaOで興味深い番組、
禁断の聖書をやっていた。
Vol.3のハルマゲドンはともかく、そ~だろ~な~と思うことしきり。
Windowsで、エクスプロ~ラ、ある程度の性能の回線がないと難しいかもしれないが、みればぁ。

聖書は何度かの公会議で改編されたという。
そこに、何らかの意図が紛れ込んだのは周知の事実。
全体を丸ごと肯定するのでもなく、否定するものでもなく、
実感していくことが必要。

Tuesday, January 02, 2007

正しい宗教

正しい教え。
ありえない。

孫悟空が、三蔵法師が天竺からの帰りみち、大切な経文が風に飛ばされてなくしてしまった。
見つけてみると何も書かれていない白紙の経文だった。

困っていると、観音様が出てきて、
それが本当の経文なのだよ、本当の教えは文字にすることが出来ないんだよ。
と言ったという。
でもお前たちは、それではこまるだろうから字の書いた経文をあげる。
といって、経文に文字を書いてくださったという。

経文の正しい解釈は「理」の範疇であって、すべてにいたるものではない。
経文の貸し借りで空海が、最長に意地悪したという話は有名だけど、
正しさにこだわることに終始しては本当の世界を知りえないよ、といっても、
頭のよい人ほど頭で考え、判らないのかもしれない。
と、見たのかもしれない。

実際、オウムみたいに都合よく解釈して、危なっかしくて言えないことも多い。
そこまでではなくても、ボディス~ツだけですこし多くの人たちからは非難轟々の声が上がる。
かといって、今の世の中をそのままには出来ないし。

ということで、
マチガイのないことを考えてゆかなければならない。
ここで言うマチガイというのは「正しい」くないということではなく、
マドワサレルとでも言ういみで。
ごまかされてしまわないようにする方法を考えてゆかなければならない。

友人がわざわざ外国まで行って悟ってきた。
「祈りなさい」といわれたとか。

そ、祈ること。
自分のためでなく。
これだけで十分。
初級にして、最上級か。
中級は後日。

今年は正しい年になるように~

やっぱり違和感を感じますね~~
もはや正月2日、、、正しい月だって。ちょっと意味が違う。

2日というと初夢。元旦は徹夜が原則なので初夢は2日なのか??
というワタクシメは、元日に寝て、おきて飯を食べて一服してすぐ寝たので2度ほどゆめのチャンスがありました~~
んで、
しっかりみました~~~

チョイ不気味のミステリアス~~
ふるさとのなつかし停車場の北になぜか在日朝鮮人の集落がありました~
道路入り口上には何とか銀座商店街のような看板が、、
しっかし~その古い板になにか書いてあるかないかは不明でした。
その入り口前には2軒の空き家。
ガラス戸からのぞくと、1っ軒目はまあ普通、
2軒目はなぜか空っぽのなかのたたずまいが凛として、
なにもないのにとてもうつくしい。
。。。
自分の子供と落ち合う約束をしていたところに行こうと、
集落のみちにはいるとなぜか雑巾がけ競争をすることに。
四つんばいで走っているとしらない子供が一人絡んでくる。
2度目もまた。

なにかあるんでしょうね。
亡くなった友人が在日だったことが後でわかった。
しばらく世話になったパチンコ屋さんがもちろん在日。
父方はわからないが、母方は大伴(大陸渡来?)にル~ツがあるとか。
イヨンエは美しいと思うし、
李朝の焼き物もすばらしいと思う。
しかし、政治機構はごめんかも。